2018年2月26日月曜日

「青いねこ囃子の乱痴気」  -平治による『エクリシス』批評-




「青いねこ囃子の乱痴気」


  「愛のために死す」を初めて聴いたのは今から6,7年前になる。それは落合スープというライブハウスで開かれていた「愛のために死す」とレコンキスタの隔月共同企画”Frame Out”でのことだったと思う。幾つかのバンドが出ていたが「愛のために死す」はヴォーカルが妙に突っかかってくるような無法者の音楽といった印象でその時に連想したのはMC5でもストゥージーズでもブルーチアーでもなく何故か「アタシ、なんや逆らいたいんや」という田中登監督の尋常ならざる大傑作「(秘)色情めす市場」(1974)の芹明香が吐く台詞。そしてライブ終了後に会場外の階段にいたヴォーカルの弦人氏に「とても良かったよ。歌うまいね。またライブ聴きに来ます」みたいな無難な挨拶をしてその後もアルバム「部屋と夢」は良く聴いていたもののライブに行く機会もなく新作の話も聞こえてこないまま「解散しちゃったのかな」などと思っている内に7年ほどの月日があっという間に過ぎ去っていったのである。

  所が福音は突然に届くもの。昨年(2017年)の9月末頃にレコンキスタの清水氏より自主レーベルを立ち上げその第一弾として「愛のために死す」の新作をリリースするとの連絡があり日を置かずして送られてきた『エクリシス』のサンプルCD(サンプルではなく正規盤であったが)。そのジャケット表には青い色調の闇の中で車のヘッドライトに実体を持った亡霊が一瞬浮かび上がるかのような弦人が佇み、裏は青い闇に溶け込むのを拒絶する弦人、内側は青白く輪郭が浮かび上がるメンバー。フォトは細野晴臣のコラボレーターとしても知られる写真家・安殊が撮影したもの。アンダーグラウンドなインディっぽさ(笑)の香りを残しながらもこれから聞こえてくる音の導入部としてはとても期待を持たせてくれる。果たしてCDプレーヤーから聞こえてきた音はレコンキスタのレビューにもあるように内在するものは「村八分やガセネタ、INU等に共通するフィーリング」であり、音の感触は「RCサクセション、ルースターズ、ブルーハーツ、初期のエレファント カシマシ、ブランキー・ジェット・シティ」といったものでそこから投射される世界観は「時代に対して激しい怒り」を持ち「現行のロック以上にヒップホップ的」であり世界に新たな傷跡を残すような引き攣った音はP.I.Lのようであり整序された世界にひび割れを起こさせるようなブルース性は「スーサイドやセルジュ・ゲンズブール」を召喚するだろう。そして付け加えるとすれば、だててんりゅう『Live'71』『RED AFTERNOON BLUES』の持つ感情の原液から直接汲み上げられてきたような痛みとフード・ブレイン「新宿マッド」の解放されることのない煮詰まった暴力性。政治的な社会性を持った怒りとは異なる方向性を失った怒り。しかしそれは荒れ狂った怒りの空転ではなく怒りの対象を持たないような怒りである。社会への反抗、憤りという感情の発露が「ロック」の本源的なものであるというクリシェに似せて作られているが寧ろそれを裏切るような怒り。というように類推、連想、アナロジーのような言葉で音楽を語ることは実は当の「音楽」について何一つ語っていないとも言えるのだがそれは紙面(あるいは画面)が振動を持ってそれを見る者に訴えることができない(音を聴かせることができない)という単純に物理的な制約上いたしかないことだ。ただ「グダグダ言わずに聞いておけ」で済む話をああだこうだと言いたくなるのはその「作品」が既に様々な連想を生むほどに豊かだということなのでご容赦を。

  「愛のために死す」という名称を聞けば同名のフランス映画が思い浮かぶ。五月革命が吹き荒れる一九六八年のフランスで実際にあった高校の女教師と教え子との恋愛事件を元にした、純粋な愛が世間の常識や秩序を混乱させそれらの制度を支える法律の力によって逆に踏みにじられていく悲劇を描いた映画作品。映画では合法的な暴力、実定法的な法によって独占される暴力が個人の暴力(教師と生徒のあってはならない関係)を制圧する、つまり社会の原状を回復する様が描かれる。「愛のために死す」のバンド名がこれと関連するのかは知らないが彼らの音楽にはこうした世界中に張り巡らされた抑圧への反発があるのは確かだろう。無論それは制度や体制への反発という安全な図式で処理されるものでははないだろうが。

  『エクリシス』から怒りの表明を聞き取ることは容易い。しかしそれを称して彼らが「メッセージ性の強いバンド」というようにレッテル貼り(笑)をして心の安寧を求めてはならない。「望みもしてないのに生まれたときから 弱い者を金と性と暴力で苦しめて得た便利な快楽に ぼんやり犯され体がだるい」「奴隷の自由に飼い慣らされて 生ぬるい絶望に浸かって 思考停止でいる方が楽だから ゆっくり腐り果てるまで蝕まれてく」(キリストまがい)「心のなかの憎しみに耐えられなくなった人たちが 日の丸を盾に自分だけが正しい存在だと思い込み出すと いままで流れていたただの血液が純血だと身悶えして疼きだす」(透明な傷)といった極めてストレートな「怒気」を含んだ物言いは過不足無く文字通りの意味として捉えるべきではあるのだがそれは寧ろ“分かり易さ”で意図的にコーティングしたものでその言葉は社会の表層に吸着する。そしてそれは徐々に音と共に表層の傷として深く浸透することで“傷口”として留まるだろう。やがて“傷口”はどうしようもなく世界の異物である「自分」と白々しく存在する世界で自分が向き合える何かを発見するための回路となる。その何かは取り敢えずの「神」でもよい。「僕はこの体を深く傷つける そのたびに透き通ってゆくときだけ 神様の愛を感じられる」(透明な傷)。そして世界と関わることで世界自体が「自分」が刻み込まれた空間へと変容していく。少し前に「音楽に政治を持ち込むな」という間の抜けた論争がネット上で交わされたことがある。無論その時の「政治」とは音楽で政権批判をするなというような極めて浅薄なものではあったけれどもある音が世界で鳴り響くということはそれだけで“政治的”なことなのだ。“お花畑”と言われようが音楽で世界は変わるだろう。とは言っても巷に溢れている日常生活の空間を占有する国策音楽は世界を変容させるどころか世界の流動を止め、それを聞く人々を一つの音へと調律する。モノトーンな世界に配置された貧血した人々。今の我々に必要なのは多血質の音だ。多血質といっても血の気が多いメタル系のそれとは異なる19世紀ウィーンの下層から共同体を脅かしたカッツエンムジーク(ねこ囃子)の騒乱(ノイズ)の響きのようなもの。ノイズとは異物として排除された音ではなく生そのものと共に常にあり直接生を喚起する。「愛のために死す」においてそれは弦人のヴォーカル。最近、カラオケで歌の上手さを競うテレビ番組があるがその点数の基準とはいかにヴォーカルが楽譜の指示する音程やテンポと合致してズレずに歌いきれるかということでありそれは与えられた規範にどれだけ忠実に歌えるかという競争である。当然普通に聞いている分には皆上手いのだが面白くはない。何故ならそこには社会を整序する力と同質のものしかないからだ。しかしそれは多くの人を安心させるという意味で人を“諭す”ヴォーカルではある。対して弦人のヴォーカルは逆に規範から少しズレながら音と言葉が一体化せずに微妙な偏差を伴いながら疾走し、規範を超えることを挑発し誘惑するヴォーカルである。音楽の合理性から自由になるための音楽。恐らくそれは社会の規範への反発というよりも日常に於ける「音楽の役割」を平然と裏切り、音楽による世界の拡張、変更を欲望しているからだろう。昔も今も市場の欲望、社会の欲望に馴致・同化せずに異物としての作品を流通させるためには繊細で強かな戦略が必要だ。世界に親しげに近づきながら取り込まれる瞬間に身をかわすこと。かわすと言うよりも少し身体を捻って力の方向性を変えること。そう『エクリシス』のジャケットに映る弦人のように斜に構えること。「愛のために死す」の『エクリシス』が纏うメジャー感にはそのような力の屈折がある。

  「(秘)色情めす市場」で吐かれる「アタシ、なんや逆らいたいんや」。この台詞は不条理で非道な社会であってもその社会の底辺で娼婦として生きざるを得ない主人公の社会への精一杯の抵抗、捨て台詞と考えるのが普通であろうが作品を通して感じられるのはやりきれない絶望ではなくどこかあっけらかんとした希望さえ感じる乾いた叙情である。「アタシ、なんや逆らいたいんや」。これは社会から阻害された異物として生きる者の悲痛というよりもこの世界で調律されることを拒む異物として存在することへの開き直りとそのことで世界に自分自身を刻み込むことの宣言である。そして『エクリシス』のオープニングを飾る「キリストまがい」のエンディング近くで聞こえる「俺は俺が死ぬほど不快だぞ」の叫びは「アタシ、なんや逆らいたいんや」と共振し、「エクリシス」で響かせる音は確かにこの世界(社会)にある種の見えざる深い傷を刻み込み世界をゆっくりだが変容させる。しかしそれは大衆を“煽動”する響きと言うよりも日常生活においてごく普通に当たり前に存在しているものの意味を拡張することによって自由と不安を煽るという感じであろうか。ヤバい感じの得体の知れぬ奴が何気ない顔をして居間に佇んでいるような趣。

  とこここまで散々あれこれ書いておいて何だが、実のことを言うと6、7年前に「愛のために死す」のライブと『部屋と夢』を聞いた時と『エクリシス』を聞いた時の印象はそれほど変わらないのだ。ロックが「歴史」を作るくらいには成熟する時間を持ったとはいえ音楽シーンに於ける6年は結構長いのか短いのかはともかく彼らの場合は変わらずにいることが停滞ではなく深化し濃縮され、しかし沈殿することなく寧ろ軽やかさを増したという感じだろうか。そのメジャー感のあるロックとも言えるように響く軽やかさは本来は調律されざる音が世界との親和性の度合いを高め、世界を客観的な対象として揺さぶるという立ち位置から世界と共振することで己の振動で世界を再調律しようという不適な構えを見せる。地界のカッツエンムジークの喧騒が地上へと密かに堂々と侵入する。

  余談だが『エクリシス』を知人の京都在住で遠藤ミチロウをこよなく愛する草月流の先生(♀)にプレゼントした所、「ちょっと聴いただけなのに耳から離れないです。こんなに凄いものを貰っていいの」との反応があった。印象に残るではなく「耳から離れない」。文字通りに聴覚に憑依する音楽。瞬間瞬間に消費されるようで消えずに空気の微細な振動としていつまでも漂い続ける音振。草月の花は床の間という特権的な空間を離れることで安定を失い、形式化を脱することで不安定の中に「自由」という表現の領域を拡大した。音楽にとって「聞きやすい」とはどういうことか。社会の中で生活の中でそれぞれのものがその存在が適正な場所に“収まっている”という感覚。それを保守するのは聞く人々を諭す歌であり社会が要請する音楽である。しかしそれは社会の維持には貢献しても社会を閉ざしたまま衰退させるだろう。対して聞く人々を誘惑して荒れ地へと連れ出す歌がある。それは社会を新たな地平に開く可能性を宿している。果たして「愛のために死す」は“アンダーグラウンド”という自らは望まぬであろう収まりの良さを脱して地上の自由という不自由な空間に新たな回路を切り刻むことができるのか。彼らが「コアな音楽ファンから熱烈な支持を受けるロック・バンド」に留まっては困るのだ。老若男女、国籍を超えて一人でも多くを誘惑し、籠絡し機能的な世界に程よく収まっている人々を動揺させ歴史の奥深い地層で蠢くカッツエンムジークのノイズを地上に湧出させあらゆる人々を感染させて貰いたい。

  「僕がこの体を深く傷つけると 神様の愛を感じられたのに いまはもうなにも感じられない」(透明な傷)

  青白い暗がりから立ち上る『エクリシス』。「愛のために死す」は神の愛がなくとも自らが刻み込む世界の傷口から流れる多血質の音で貧血した世界を横溢させてくれるだろう。

平 治(ユリシーズ)